けふもあたたかい長崎の水

Santouka081130018

−表象の森− 日本語の構造
山城むつみ「文学のプログラム」-講談社文芸文庫-より−1

「本当に語る人間のためには、<音読み>は<訓読み>を注釈するのに十分です。お互いを結びつけているベンチは、それらが焼きたてのゴーフルのように新鮮なまま出てくるところをみると、実はそれらが作り上げている人びとの仕合わせなのです。
 どこの国にしても、それが方言ででもなければ、自分の国語のなかで支那語を話すなどという幸運はもちませんし、なによりも−もっと強調すべき点ですが−、それが断え間なく思考から、つまり無意識から言葉-パロール-への距離を蝕知可能にするほど未知の国語から文字を借用したなどということはないのです。」 −J.ラカン「エクリ」<音読み>が<訓読み>を注釈するのに十分であるというのはどういうことか。
「よむ」という言葉が話されるとき、読や詠、あるいは数・節・誦・訓という漢字を適宜、注釈しているということである。この注釈のため「読む」と「詠む」は、読という字と詠という字が異なるのと同じくらい異なる二つの言葉として了解される。日本語においては、文字-音読み-が話し言葉-訓読み-の直下で機能しこれを注釈しているのである。もちろん、話し手はそれを意識していない。その意味で、この注釈の機能は無意識のうちに成されていると言ってよい。

次に、「どこの国にしても、‥」以下の一文から読取らねばならないのは、すなわち、日本語が中国語という未知の国語から文字を借用し、日本語固有の音声と外来の文字とを圧着したということは、<音読みによる訓読みの注釈>を可能にしているのみならず、「無意識から言葉-パロール-への距離を蝕知可能に」もしているということである。外国から文字を借用したからこそ、日本語は音声言語の直下において文字言語を注釈的に機能させうるのだが、この機能により日本語においては無意識から話し言葉への距離が蝕知可能となるのである。

ここでラカンは、あえていえば、<日本語の構造そのものが、すでに精神分析的なのだ>と言っているにひとしいのだ。


―山頭火の一句― 行乞記再び -42-
2月3日、勿体ないお天気、歩けば汗ばむほどのあたたかさ。

だいぶ気分が軽くなつて行乞しながら諫早へ3里、また行乞、何だか嫌になつて−声も出ないし、足も痛いので−汽車で電車で十返花さんのところまで飛んで来た、来てよかつた、心からの歓待にのびのびとした。

よく飲んでよく話した、留置の郵便物はうれしかつた、殊に俊和尚の贈物はありがたかつた-利休帽、褌、財布、どれも俊和尚の温情そのものだつた-。

長崎はよい、おちついた色彩がある、汽笛の響にまでも古典的な、同時に近代的なものがひそんでいるやうに感じる。

このあたり−大浦といふところにも長崎的特性が漂うてゐる、眺望に於て、家並に於て、−石段にも、駄菓子屋にも。

思案橋といふのはおもしろい、実は電車の札で見たのだが、例の丸山に近い場所にあるさうだ、思切橋といふのもあつたが道路改修で埋没したさうだ。

飲みすぎたのか、話しすぎたのか、何や彼やらか、3時がうつても寝られない、あはれむべきかな、白髪のセンチメンタリスト!

※表題句の外、1句を記す
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Photo/現在の長崎市
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Photo/今は欄干のみを残す思案橋
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Photo/思切橋跡の碑

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