稀にくる夜半も悲しき松風を‥‥

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−表象の森− 永長の大田楽

われわれヒトという種が死に向かって生きざるをえないかぎり、世の中どのように変われど、いつの時代においても終末観や末法観というものは大なり小なり世相に潜み、この地球も、われわれの社会も、たえずカタストロフィの予感に満ちているというものだ。


賀茂川の流れと双六の賽と山法師を天下の三不如意と言挙げた白河法皇院政は、応徳3(1086)年から大治4(1129)年に没するまで足かけ44年の長きにわたったが、地方における武士団の跳梁にみられるように、すでに支配システムは内部から構造的変化を起こしつづけている王朝貴族社会の平安期も後半のこの頃は、内心は忍び寄るカタストロフィに脅えつつも、表層は平静を装いつつ、ヒステリックな利己主義と刹那主義、頽廃と無気力、浪費と逸脱が横行し、過差(かさ)−華美で奇抜なもの−を好み、これをこそ風流とする嗜好が上層から下層まで次第にひろまっていった時代である。
さればこそ白河院は、法勝寺に八角九重塔などと度肝を抜く奇抜巨大なものを建てたり、六勝寺の法会などを殊更華美に飾り立てたり、はては9度までも仰々しく貴族たちを引き連れ熊野へ行幸したのだろう。熊野詣にかぎっていえば、源平騒乱期の院、「梁塵秘抄」を選した今様狂いの後白河院にいたっては、院政34年の間に行幸33度を数えたというから、これはもう正気の沙汰ではあるまい。


嘉保3(1096)年3月、内裏が死の穢れに触れたとかで、すべての神事が延期されることになった。洛西嵐山の松尾大社の祭礼に突然中止命令が出たことに反発した民衆たちが、祭神は延期など欲していないと流行り歌をひろめ、田楽を囃しながら神社に集い騒擾となった。この騒ぎが肥大化して、5月末頃からは祇園御霊会(現在の祇園祭)をめざし、大勢の近在農民らが田楽を演じながら洛中に押し寄せる。洛内の民たちも御輿を担ぎ、或いは獅子舞・鼓笛などで騒ぎ立てながら合流、狂騒の徒と化した大田楽の群衆は石清水社・賀茂社・松尾社・祇園社など次から次と参っては狂気乱舞する。群衆はさらに白河院御所へと向かい、田楽好きと評判の院の愛娘媞子内親王が喜び興じるなか、院から下人までうち交じって田楽に興じる始末。
「十余日間、京中の民衆が祇園御霊会にことよせて連日、昼夜を問わず鼓笛を響かせ歌い踊り狂い、道路を埋め尽くした」と藤原宗忠が「中右記」に記しているように、7月には殿上人まで夢中になり、街路・社頭から院御所・内裏にいたるまで上下こぞって田楽に熱狂したのである。ところが8月7日、どうしたことかこの田楽騒ぎを喜んでいた媞子内親王(21歳)が急死するという変事が起こる。これには院や天皇、貴族たちは政治的凶事の前兆かと恐れおののき、またたくまに民衆たちへも動揺がひろがって、この永長の大田楽と呼ばれる一大狂騒も足早に収束していくのである。

            ――― 参照・講談社版「日本の歴史07−武士の成長と院政


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑−22>
 澄める池の底まで照らす篝火のまばゆきまでも憂きわが身かな   紫式部

紫式部集。
天元元(978)年?−長和3(1014)年?。越後守藤原為時の女。堤中納言兼輔の曾孫。藤原宣孝との間に大弐三位をもうけたが、夫の死後一条院中宮彰子に仕えた。源氏物語作者。拾遺集以下に約60首。
邦雄曰く、道長邸で法華三十講が催されたのは、寛弘5(1008)年の5月。5日の夜、作者は道長夫人の姪廉子を眺めつつ歌う。今、栄華を極める貴顕の人々も、その光輝の彼方には、暗黒が透いて見える。「まばゆきまでも憂き」には歌人としての才の疑いも思わず保留したくなるほどの、明らかな資質が見える、と。


 稀にくる夜半も悲しき松風を絶えずや苔の下に聞くらむ   藤原俊成

新古今集、哀傷。
邦雄曰く、詞書に「定家朝臣母みまかりて後、秋の頃、墓所近き堂に泊りて詠み侍りける」と。その夜、定家は家に帰って「たまゆらの露も涙もとどまらず亡き人恋ふる宿の秋風」と詠んだ。俊成の情を盡した哀歌、定家の冴え冴えとした秋風悲調、それぞれ稀に見る挽歌である、と。


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