あきづ羽の袖振る妹を‥‥

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−表象の森− ともすれば地獄のほのを


 花を愛し月を愛する、やゝもすれば輪廻の業、
 ほとけをおもひ経をおもふ、ともすれば地獄のほのを‥‥


一遍聖絵」の冒頭には、長い果てしのない遊行の旅へと、伊予の国を出立する際の姿が描かれているが、旅立つ一行は5名、一遍と、超一、超二、念仏房、そして一遍の弟とされる聖戒−一遍聖絵の制作者−である。
この超一、超二と名づけられた尼僧は、一遍が還俗していた頃の嘗ての妻であり、その女児だという説がある。
時に、文永11(1274)年2月8日、蒙古襲来の元寇文永の役はこの年の10月であった。

この超一が旅の途次儚くも死んだと思われる記載が、往生の記録である「時衆過去帳」に、弘安6(1283)年11月21日、超一房とあり、これが同一人物であり、嘗ての妻であるとすれば、彼女は9年の歳月を一遍に付き随い、野路の草の露と果てたことになる。
無論、男女の愛欲を打ち棄て、乗り超えんとした同行の旅であったろう。
一遍時衆は、その遊行においても、念仏踊においても、つねに男女が同行し、愛欲破戒の危機を孕みつつ、集団として動きつづけた。
それは、捨てきる事への試練のくびきでもあったろうが、
捨てても捨てても捨てきれぬ心への慈しみであったのかもしれない。
さもなければ、
花を愛し月を愛する心が、仏を思ひ経を思ふ帰依が、
ややもすれば輪廻の業ともなり、ともすれば地獄の焔ともなる、
という絶対的矛盾の内に、宙吊りのごとくある、生きることの相を捉えきれないだろう。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<恋−37>
 あきづ羽の袖振る妹を玉くしげ奥に思ふを見たまへわが君   湯原王

万葉集、巻三、雑歌、宴席の歌二首。
生没年未詳、志貴皇子の子、兄弟に光仁天皇春日王天平前期の歌人万葉集に19首の短歌。
邦雄曰く、紗か絽か羅か、脈翅目の羽根さながら、透きとおる衣を着る麗人に、直情を披瀝するその言葉の彩に、君の艶姿がおのずから浮かび上がってくる。題に即するなら、宴の席に侍る舞姫の一人でもあろう。必ずしも愛の告白とはかぎるまい。自然、調べは軽快で、挨拶歌の楽しさも溢れている、と。


 見せばやな君しのび寝の草枕たまぬきかくる旅のけしきを   藤原忠通

金葉集、恋上、旅宿恋を。
承徳元(1097)年−長寛2(1164)年、道長の直系にて関白太政大臣忠実の子。兼実・慈円らの父、忠良・良経らの祖父にあたり、法性寺関白と号す。金葉集初出、勅撰入集59首。
邦雄曰く、旅の夜毎に引き結ぶ草枕のその草にも、君を恋いつつ、逢えぬ歎きに流れる涙は、玉となって、あたかも緒に貫くように落ちかかる。袖はしとどに濡れて乾くまもない。「見せばやな」の願望初句は常套手段の一つながら、一首自体が美しい工芸品に似た光と潤いをもち、恋歌の一典型として鑑賞に耐えよう、と。


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