北の御門をおしあけのはる

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<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「霽の巻」−04

  歯朶の葉を初狩人の矢に負て   
   北の御門をおしあけのはる   芭蕉

次男曰く、其場のあしらいである。
背に初春を背負うと読んだか、それとも歯朶の別名-裏白-に眼を付けたか、北門から初狩に出る思付はいずれにしろそのあたりからだが、北門は陽-南門-を背にして陰に向いた門である。東・西の門には特別の意味はない。また、めでたい初狩とはいえども殺生には違いないから、「北」とした句作りにはそれやこれやの目配りもある。「御門」は禁門、城門いずれでもよいだろう。

虚を実に執り成した第三-前句-の作意を見抜けば、うまいあしらいだと思うが、そこに気がつかぬと押開きに季-明の春-を取り込んだだけの只の逃句になってしまう。とりわけ、先に「氷踏み行く」と云い、今又「門を押開く」と云う輪廻気味の行為の絡みが気になる筈だが、古注以下、その点を見咎めひるがえって脇・第三の虚実に思い到った評釈を見ない。

「早春の暁天に凛々しく出で立ちたる士の城門を出づるところ」-露伴-と読んで事足れりとするか、さもなければ、「前句は初狩に出づるさまながら、其の出づるに直に門を押開けてと見るの要無く、却ってかく見るは蕉風の真手段よりは不可なること既にしばしば云へるがごとし。祝意正しき歯朶を矢に負へる初狩姿の華々しく礼々しき装ひに、その初狩の獲物より禁裡への新春の貢物を想はむはまことにさるべき趣向なり」-樋口功-と、行為・人体の読替によって三句のもつれを解くかである。

樋口の解は成り立たぬではないが、これはうっかりと初手から句はこびを実と考えて疑わなかったための手詰りの思案である。任意かつ安易な読替は、つねに連句にとって危険な罠だ、と。


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