里見え初て午の貝ふく

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<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」−10

  何事も無言の内はしづかなり  

   里見え初て午の貝ふく   芭蕉

次男曰く、無言といえば山伏の行、山伏といえば吉野の大峰入と見定めた付だろう。

その大峰修験のなかでもとりわけ大事で名誉とされてきたのが、笙の窟の冬籠りである。重陽節句-9月9日-から、上巳の節句-3月3日-まで、半年にわたる長行を古式とする。

僧正行尊の、大峰の笙の岩屋にてよめる
「草の庵なに露けしと思ひけん洩らぬ岩屋も袖は濡れけり」-金葉集-

日蔵上人の、御岳の笙の岩屋に籠りてよめる
「寂莫の苔の岩戸のしづけきに涙の雨のふらぬ日ぞなき」-新古今集-

前は伝西行の「選集抄」にも、「香は禅心よりして、火なきに煙たえず、花は合掌にひらけて、春にもよらずして三年を送る」云々として見える歌である。白川法皇・鳥羽・崇徳両天皇の護持僧となった天台座主が、三年のあいだ、籠ったというのは笙の窟だけではなかった。熊野と金峰山の真中あたりに位置する深仙-神仙-の堂にも籠っている。

十二支の巡は巳の次は午だ、という俳諧師らしい思付が、正午を告げる興を誘ったようだ。「里見え初-そめ-て」とは上巳出峰の云回しだろう。修験とかぎらず、山歩きで里が見え初めるのは頂上に出たときで、下りではないが、「午の貝ふく」の気分はそこにも体験的に響いている。

諸注いずれも下山の心にのみ急で、静から動へ移る活気が奈辺にあるか、まったく触れ得ていないようだ、と。


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日ざかり黄ろい蝶

Yamadaizumi

句は、其中庵の山頭火昭和8年か。

−表象の森− 彫刻の小径と山田いづみ

14日、昼過ぎからOAP彫刻の小径2008「空と風と水と」を観に出かけた。
OAPプラザを通り抜け大川べりに出ると彫刻の小径がある。8点の彫刻が右に左にと15?ほどの間隔かで点在するのを観ながら歩いてゆくと、アートコートギャラリーに出る。その玄関前では出品の作家諸氏と思われる面々が打ち揃ってすでに野外パーティよろしく歓談していた。

栄利秋さんとは二年振りか、今は奈良市となった月ヶ瀬にある倉庫もずいぶんギャラリーらしくなったと云っていたが、その作業などに足繁く通っているものと、よく日焼けした顔から覗えた。

それぞれの作家が、自身の作品について語るのを聞くというのは、此方としてもめずらしい経験で、理論派あり直観派あり、流暢に雄弁をふるう者、訥々と弁ずる者と、その個性が作品とも対照されて、それなりに面白かった。

天神橋商店街へと向かう東西の道は寺町のように寺社が並んでいるが、与力町あたりか、緒方洪庵墓所との石碑が眼についたかと思えば、さらに少し歩くと今度は山方幡桃の墓所とあった。

次の予定島之内のWF行きには長堀まで地下鉄一本、時間にまだ余裕があるので商店街の喫茶店に入って暫時休憩、安東次男の「芭蕉百五十句」を読む。

山田いづみ公演「そよそよ そより 彩ふ」の客席は10人余りとずいぶん寒いものだった。金曜から日曜、3日間で5ステージに少々無理があったのだろう。

さてその踊り、どうしても越えねばならぬ50歳となる年齢からくる身体的な壁と、生涯一舞踊家としての覚悟を、なにをもって拠り所となしうるか、いわば嶮岨な転回点にあることを示していた。

一見自信家で、旺盛な活動力もある彼女だが、それとてもこの転回はなかなかに至難の業ということだが、今日の踊りに即して、私にすればめずらしく、一点の問題を指摘しておいた。どう受けとめえたか知る由もないが、次の、あるいは次の次の、彼女の踊りに、その応答を見出すしかない。


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