ほつれたる去年のねござのしたゝるく

Alti200657

<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」−10

   里見え初て午の貝ふく  

  ほつれたる去年のねござのしたゝるく 凡兆

次男曰く、「したたるし」とは言葉遣いや態度の甘え、べたつきを形容する語で、発生は仮名草子あたりか。近世のことばだが、物の状態に転用した例は珍しい。垢染みてべとつくさまを云うのだろう。

句は、行者が携えて下山する寝茣蓙と解しても通じるけれど、それではいかにも芸のない会釈-あしらい-付である。満願成就は出峰とはかぎるまい。そのまま岩屋で即身成仏した者も少なからずあった筈だ。

「里見え初て午の貝ふく」の凡兆解釈にも往生の含があるようだ。拠り所は「千載集」俳諧歌の、「今日もまたむまの貝こそ吹きなつれひつじの歩み近づきぬらん」だろう。「山寺に詣でたりけるとき、貝吹きけるを聞きてよめる」と前書があり、作は「栄花物語」の作者に擬せられる赤染衛門式部大輔文章博士大江匡衡の妻で、関白道長の妻倫子に仕えた。浄土門の信心厚く、「栄花物語」にも「往生要集」からの栽入が随所に見られ、釈教歌の数も多い。この歌も、云回しの利口さこそ滑稽だが、内実は釈教歌だろう。羊の歩みとは「涅槃経」に云う、屠所に引かれる羊のごとく死期に近づくことで、十二支に当てれば未は午の次である。

凡兆が前句のあしらいらしく持ち出した寝茣蓙が、単なる山臥の具ではなく、浄穢不二を含とした命終の行儀らしいと気付く。

そういえば蕉・兆の付合は、「栄花物語」の中心人物そのものの俳諧化と、読めなくはない作りである。法成寺入道・太政大臣道長が、九体の阿弥陀如来の御手に渡した蓮糸の紐を握って逝ったことは有名な話だ。金峰山上に經塚を建立し、平安貴族の間に御岳詣を流行させたのも、道長である。

十二支の巡-巳・午・未-をはこびの趣向として、「千載集」の俳諧歌に注目させたのは芭蕉だったかもしれぬ。「里見え初て」を上巳出峰とする絵解がなければ、山臥の寝茣蓙を赤染衛門の歌に結びつける興も亦生れまい、と。


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