吸物は先出来されしすいぜんじ


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<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」−12

   芙蓉のはなのはらはらとちる  

  吸物は先出来されしすいぜんじ  芭蕉

先-まず-出来-でか-されし

次男曰く、供養に飲食-オンジキ-は付物と見込んだ付だが、見どころは、雑の作りを以て季の実を引き出した手際にある。

蓮をして蓮たらしめているのは、浄土を庭前の眺めに奪った芭蕉の工夫で、史邦ではない。仮にここを二句観相気味に継げば史邦の句は有季とも治定しがたくなるから、さしずめ、衆目一致の夏の句を付けて「芙蓉のはな」の根締-夏二句-にでも仕立てるのが妥当なはこび方だろう。史邦が、秋の筈はないがさりとて直に夏の季語とも云えぬことばをわざわざ持ち出して云回したのは、師の継ぎぶりをしかと見たかったからか。

「吸物」は会席料理の汁椀だろう。飲食は「先」汁からで、菜の賞味は後である。一汁一菜-鯰の向付-を以て膳組の基本とし、煮物-二菜-・焼物-三菜-の順に加える。

「すいぜんじ」は水前寺、水前寺苔のことである。「水」は蓮-水芙蓉-の縁、「寺」は供養の読取り。海苔は法-のり-に通い、法事のつきものである。スイモノ、スイゼンジの語呂もよい。

句は、汁椀の蓋を取っただけで篤志の程がわかった、と凡兆・史邦の息の合った付合ぶりを誉めそやしているらしく読める。

芭蕉は水前寺苔の名をどこで知ったのだろう。元禄頃、水前寺苔はまだ世に知られていなかった。「吸物は先出来されしすいぜんじ」と、句は甘い香りが鼻先に漂うように作られているが、じつは印象の騙しで、俳諧師は物の実際を知らず、ただ呼び名の興のみで作ったらしいと思えば、そこにもまた滑稽の一趣向が現れる。味わったと告げることと、味わってみたいということは、違うだろう。思いきったことをやるものだが、これは次句の作り-解釈-の決め手になるやもしれぬ、と。


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