三里あまりの道かゝへける

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<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」−13

  吸物は先出来されしすいぜんじ 

   三里あまりの道かゝへける  去来

次男曰く、ハスの花は日の出とともに開き、午後3時頃に閉じる。散る時は一度に花弁が落ちるわけではないが、午後、ほぼ同刻頃までに散り終る。それを見届けてから三里の家路を帰れば、夏なら、日没までには着く。花も閉じかつ散る頃、ちょうど法事も終った、と考えれば句はわかる。日の暮れぬうちに帰りたい、と云っているのだ。含は二つある。

巡は初裏の八句目、二度目の月の定座に当るが、去来は後に零した。以下に見るとおり、史邦は遠慮し、十句目で-花の定座前-で凡兆がこれを詠んでいる。この歌仙の二花三月は、定座変更は一箇所だけである。結果は凡兆が月・花一つずつ、去来が月一つ、そして芭蕉が月・花一つずつとなった。

遅きに過ぎたとも云える初の撰集でありながら、無名の一新人を主役に推挙した男の心遣いが良く窺われる配分だが、月の座を譲って持成とするためには、自らの家路が夜分にかかっては具合がわるかろう。六里、七里ではなしに、「三里あまり」とした理由はそこにある。謙退とは斯くあるべきと思わせる即妙の付で、句ぶりは其の人の言葉と読んでよい。

道の捗-はか-を積ってみる興が動かねば、月の座を譲った去来の心遣いにも気付く筈はないが、「三里あまり」にはもう一つ、大切な含がある。水前寺苔の句が、語縁を巧みに利用した付だとは先にも言ったとおりだが、芭蕉が未知の苔の名を持出した本当の狙いは、月の定座にあたる去来の取り捌き方を見たかったからだろう。

実は、肥後は向井氏の発祥の地である。其処で新しく発見された珍しい苔-法-なら、王城の地で、きみ-去来-が正客となって、興行される新風の瑞祥たるに相応しいではないか、と水を向けているのだ。「猿蓑」は去来の兄震軒-元瑞-も特別に詩文を寄せ、一族5人の発句が入集している。内、亡妹千子を除いていずれも長崎住である。小なりといえども、これは九州にて初めて蕉風の砦を作ったわけで、記念すべき出来事だった。

「すいぜんじ」と持掛けられて、早々覚悟を問われたと、去来が気付かなかった筈はない。ならば、「三里あまりの道かゝへける」とは、凡兆に月を譲った成行上、慌しい仕儀となった無調法、倉卒についての謝辞である。二兎は追えぬ、志は改めて御覧に入れる、と躱しているのだろう

因みに、名残ノ折で去来がつとめた月の句は「青天に有明月の朝ぼらけ」、以下この歌仙はいずれ見るとおり、果たせるかな、筑紫の浜に旅寝の情を探り、一同意気盛んに巻き了えている。成就の興は新風の旗揚に相応しい行様で尽そう、という合意は予めあったのだと思う、と。


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