苔ながら花に竝ぶる手水鉢

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<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」−17

   さし木つきたる月の朧夜 

  苔ながら花に竝ぶる手水鉢  芭蕉

竝-なら-ぶる

次男曰く、「猿蓑」の三つの歌仙興行で、芭蕉は異例の脇をつとめている。これは、王城の地で正風を起すなら京連衆を撰者に立て、かれらを客とし自らは亭主として振舞おうという趣向だが、そういう男が最初の花の座に当れば、作分は当然のこと祝言の工夫になる。

並の初花の場合とは違う。「すべて千うた・はたまき-千首・二十巻-、名付けて古今和歌集といふ。かく、このたび集め撰ばれて、山下水の絶えず、浜の真砂の数多く積りぬれば、今は明日香川の瀬になる恨みも聞えず、細れ石の巌となる喜びのみぞあるべき」という「仮名序」を自ずと思い出す。むろん、例の賀歌の方もである。

「わがきみは千代に八千代に細れ石の巌となりて苔の生すまで」-古今集・よみ人しらず-
この歌は、たぶん同じ作者の手に成る別案と覚しき形が、「古今和歌六帖」に「巌」題で入っている
「苔ながら生ふる巌は久しくてきみに比ぶる心あるかな」-紀貫之-
西行の「独尋山花、誰かまた花をたづねて吉野やま苔踏み分くる岩つたふらん」-山家集-というような諷詠の考え方は、右の伝統があって生れてくるが、「六帖」の貫之の歌も芭蕉は知っていたのではないか。

「巌」を「手水鉢」に取替れば俳諧になる。手水鉢の起りは明らかではないが、平安末在銘のものも伝存し、鎌倉時代以降、とりわけ禅院で重んじられた。多くは石造である。漱清の礼はそのまま茶の湯に取入れられ、利休の伝書「南方録」にも先ず、「易-利休-の曰く、露地にて亭主の初の所作に手水を使ふ、これ露地・草庵の大本也。此露地に問ひ問はるる人、たがひに世塵のけがれをすすぐ為の手水鉢也。寒中には其寒をいとはず汲はこび、暑気には清涼を催し、ともに皆奔走の一つ也」とある。芭蕉はこれを読んでいたわけではないが、為来-しきたり-や作法は自ずと心得ていた筈だ。

「苔ながら」の句は、挿し木がつけば次に初花が咲くと前を見究めて、新-凡兆・史邦-と旧-芭蕉・去来-を合せる作りである。凡兆の不安を打消して、つまり「月の朧夜」の安堵を以て俳諧としているが、これは「不易流行」の宣言でもあると気付くだろう。ちなみに、この興行の挙句は、「枇杷の古葉に木芽もえたつ」-史邦-である、と。


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