赤きポストに都会の埃風吹けり

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―山頭火の一句―

句は「層雲」大正9年1月号に発表、句作は8年の秋か初冬だろう。

山頭火は、大正8年10月、妻子を熊本に残したまま、何を求めてか、突然の上京をしている。
早稲田に近い下宿屋の2階に住む、13歳も年少の句友茂森惟士を頼りに、その隣の四畳半に住みついた。

その後まもなく、熊本の知友で早大生となっていた工藤好美が探してくれた、東京市水道局のアルバイトに従事するようになる。仕事は水道局管轄のセメント試験場での肉体労働、木枠の篩を使っての砂ふるい作業がもっぱらだった。

俳誌「層雲」への投稿も途絶えている。大正8年は皆無、々9年1月号の「紅塵」14首を最後に、「層雲」からも脱落していった。


―世間虚仮― 生と死と‥

・「日本語で書くことには、泳げないけれども泳いでみる、頑張った、浮くようになったと感じる楽しみがあるのです」
「時が滲む朝」で芥川賞を受賞した中国人作家楊逸-1964年生れ、44歳-の弁、実感のこもったいい言葉だ。

在日韓国・朝鮮人作家の受賞は李恢成や玄侑宗久ら4人を数えるが、日本国内で育った彼らとは違い、23歳で来日した彼女の場合、言葉の壁はすこぶる厚い。それがかえって新鮮な文体を生み出しているのだろう、「越境者の文学」としての評価を獲たようだ。

毎日新聞の誌面「悼む」の馬清-5月28日死去、60歳-さんの稿を読んで、カンボジア復興に捧げた草の根の熱き生きざまに、いたく心撃たれた。

詳細は此方にくわしいから紹介は端折るが、「体調不良で診察を受けたのが死の前日、翌朝、容体が急変、医師に電話し、受話器を握り締めたまま息絶えた」というから、まさに征き征きての片道切符、見事なほどに潔い死だ。


・「20万隻一斉休漁」の見出しが躍った15日、
敗戦後の混乱の世ならいざ知らず、高度成長期以来、燃料費の高騰に怒りを込めて日本中の漁船がこぞって休漁した、こんなことが嘗てあったろうか。

13億の民のたった0.02%の富裕層に冨が集中する中国では「仇冨」なる怨嗟の言葉が躍っているというが、この国においては、農も漁も、二次三次産業における派遣やパートも、また消費者にとっても、何処へ向かって拳を挙げるべきか、真の仇-カタキ-を見出すのは難しい。この国の経済も政治も、バブル以来、世界のグローバリズムに翻弄されっぱなしだからだ。

もはや、庶民における等身大の生活感覚という、その「等身大」をどんどん縮小していかざるを得ない、と覚悟するべきなのか‥。


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