Alti200630

―山頭火の一句―

句は大正14年の春。

サキノは、すでに戸籍のうえでは他人となった山頭火を、一度は邪険に追い返したものの、以後行方知れずとなった彼が心配であった。大正13年ももう秋なかばであったろうか、雅楽多の店先に魂の抜けたように立つ彼の姿を見たときは、咎める気持はすっかり失せていたか、一人息子の健との二人きりの暮しに、このたびは彼をも受け容れたのだった。

大正8年秋の東京出奔以来、まる6年ぶりの家庭の味、ぬくもりであった。しばらくは山頭火もただ休息の日々であったか、他人の口の端にのぼるような愚行はなかったとみえる。

だが、その平穏もほんのふた月か三月、束の間だった。大正13年の師走も押し迫ったある夜、山頭火は、禍転じて幸、結果的には出家へと道をひらいてくれた、生涯の転機となる事件を起こしたのだった。

どのような経緯であったか、この夜、山頭火は泥酔するほどに酒を飲み、正体を失ってしまったのだ。挙句の果てに彼は、熊本市内を走る路面電車の前に立ちはだかり、急停車させてしまったのだった。

以下、山頭火語りの私の台本から引けば、こんな調子である。

「酒に酔っぱらったわしは、熊本の公会堂の前を走る電車に仁王立ちとなって遮ってしまった。急ブレーキで危うく大事に至らなかったが、車内の乗客はみなひっくり返ったらしい‥。
近くの交番から巡査が飛び出してくる、押しかけた人だかりに囲まれる。大騒ぎになるところを熊本日々新聞の木庭という顔見知りの記者が、わしを無理矢理引っ張って、報恩寺という寺へ連れて行ってくれた。俗に千体仏と呼ばれる曹洞宗の禅寺だった。
住職の義庵和尚はなにも云わず、この業深き酒乱の徒を受け入れてくれた。過去はいっさい問わず、ただ黙って「無門関」一冊をわしの前に差しだしてくれた‥。 
長い間無明の闇にさすらいつづけていたわしは一条の光を求め、座禅を組み修行に打ち込むようになった。」

山頭火とこの木庭なる記者がどんな顔見知りであったかわかる由もないが、ただの行状不良、酔っぱらいではない、文芸の人でもあり、悩める人でもあろうかといった寛容な受けとめがあったのだろう、そんな思いが咄嗟の機転をはたらかせ、緊急避難とばかり報恩寺へと引っ張り、義庵和尚との出会いを演出してくれたか。でなければ留置場送りは必定の事件、結果は雲泥の差である。この電車事件、山頭火にとってはまこと瓢箪から駒、天恵ともなった事件であった。

いよいよ出家するにあたってさすがの山頭火も、サキノら妻子の行く末を案じ、また幾許かの心残りもあったようで、彼女に形見として一冊の聖書を託している。彼の真意がいずれにあったか、サキノはこの聖書を機縁に、市内のメソジスト教会に通うようになり、後に洗礼を受けた、という。

掲げた句は、出家の後、味取観音堂に安住し托鉢に精出す日々であったことを髣髴させる。文芸の志を抱いて防府から上京、早稲田に入学してよりすでに25年、有為転変の彷徨い歩いた長い長い回り道。山頭火こと種田正一たる俗を離れ、法名耕畝を得て、いまはただ心やすらかに、再生の日々を送っているかのようである。


Information<四方館 Dance Cafe>


―四方のたより― ちょいと東京へ

今夜からちょいと東京へ行ってくる。

劇団らせん館の、例によってドイツと日本を往還する多和田葉子もの「出島」が、東京公演で両国のシアターΧ-カイ-にかかるという。この舞台、大阪や京都でも8月にあったのだが、けっして見逃したわけじゃなく、どうせならシアターΧなる劇場もことのついでに見ておきたいと思ったのである。

そんな次第で、往きも復りも近年ずいぶんお安くなったという夜行バスのお世話に相成り、今夜発って明後日の朝には戻ってくるというトンボ返りだ。

はて、東京行など何年ぶりか、「走れメロス」に取り組んでいた頃、脚色の広渡常敏さんにご挨拶するべくご自宅を訪ねたり、東京演劇アンサンブルのブレヒト劇を観たりしたことがあるが、それなら78年か、なんと30年ぶりではないか。その広渡常敏さんも2年前の9月24日、すでに鬼籍の人となってしまっている。享年79歳だったとか。

往復夜行という強行軍が、この年になってどれほど身体に堪えるかわからぬが、早朝に着いて夜の公演まで日なが一日を、さてどこをほっつき歩いてみるかとあれこれ思案してみるのも、まったく他愛もないけれどちょっぴり愉しいものだ。

それにしても、このところ記してきた山頭火の、止むに止まれぬ東京出奔とは天地の隔たり、こんな自分につい苦笑い、といったところである。


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