夕月夜岡の萱ねの御廟守る

Dancecafe081226110

<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」−25

   何おもひ草狼のなく  

  夕月夜岡の萱ねの御廟守る  芭蕉

次男曰く、
秋の日既に斜になれば、名ある所々見残して、先、後醍醐帝御廟を拝む、
  御廟年経て忍は何をしのぶ草
野ざらし紀行」、吉野山曳杖のくだりである。
誘いの意図が野水にあったかどうかはわからぬが、右の句文を芭蕉が思い出さなかった筈はない。忍ぶ草は連・俳で三秋の季に扱い、一往ノキシノブの古名とされている。

万葉集」に「しのふくさ祓ひてましを」と遣う草の実体は不詳だが、中古以降「しのふ-偲、慕-の語尾の濁音化に伴い、その活用-ハ行四段-が「忍ぶ」-バ行上二段-と混同して多義的歌語となったもので、もともと思い草・忍ぶ草は意相通うことばである。

「しのぶぐさ」をノキシノブに掛けて遣うようになったのは11世紀初頃らしく、「源氏物語」須磨の巻に「荒れまさる軒のしのぶをながめつつしげくも露のかかる袖かな」、「和泉式部集」に「涙のみふるやの軒のしのぶぐさ今日のあやめは知られやはする」などと、いずれも「軒のしのぶ」である。

云回しが窮屈なせいか、「軒端のしのぶ」と遣った用例は少ないが、定家に一工夫した作がある。「世の中を思ひ軒端のしのぶぐさ幾世の宿と荒れか果てなむ」、文治3-1187-年冬「閑居百首」の内-雑-、齢まだ26歳だが、晩年「百人一首」を選ぶにあたって、例の後鳥羽・順徳両院の若き日の述懐を以て番えの留とした其人の、心の根を見せるような歌である。たぶん芭蕉は心に留めていたと思う。

「思ひの際、思ひの牙」両義を含めて、「思ひ軒端」に掛け繋いだと考えれば、いかにも定家らしい一癖の現れてくる詠み口で、そう解したくなるが、あるいは「思ひの牙」を見出したのは芭蕉かもしれぬ。オモイの牙から軒端のシノデへ、うまい恋離れのたねになるからだ。

いずれにせよ、仮に定家の一首がそこになくても、縁語の成立ちと掛詞の手順を疎かにしなければ、これは見えてくる興である。「御廟守る」と云っても、守丁が特別に置かれているわけではあるまい。また、被葬者の俤など探る必要もない句姿だが、崇徳院の白峰陵や順徳院の佐渡真野陵がおのずと思い出される。

先には野水が仕掛けて去来が成就した陽性の恋-初裏5.6句目-、今度は去来が仕掛けて野水が成就した陰性の恋の場に、世相人心の機微を計って、片や人も羨む金鍔の身、片や忘れ去られた草深い御陵と、こもごも見事な離れの趣向を見せる。やはり芭蕉は恋上手だ。

「夕月夜」は夕月に同じ、仲-兼三秋-の二日月から七、八日ごろまでの宵月を云う。「萱ね」は萱-ススキ・チガヤ・スゲなど、屋根を葺く草の総称-に同じで、「ね-根-」は接尾語だが、「尾花が下の思草」を匂わせて「萱根の御廟」と遣えば、「ね」はまんざら無意味とも云えぬ、と。

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