誰が契り誰が恨みにかかはるらむ‥‥

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−表象の森− 竪筋と横筋

江戸中期の歌舞伎狂言作者、初世並木五瓶(1747年−1808年)は大阪道修町に生れ、大阪浜の芝居の戯作者として活躍、「楼門五山桐」など壮大なスケールの時代物が評判をとり、上方歌舞伎随一の人気戯作者となったが、寛政6年、当世人気役者の三世沢村宗十郎とともに招かれて江戸に下る。この折、五瓶は年俸300両という破格の待遇で桐座の座付作者として迎えられたという。

初世並木五瓶には、自らの戯作の方法論ともいうべき約束事を詳論した「戯財録」があるが、そのなかで「大筋を立てるに、世界も仕古したる故、ありきたりの世界にては、狂言に働きなし、筋を組立るゆえ、竪(たて)筋・横(よこ)筋といふ。譬えば太閤記の竪筋へ、石川五右衛門を横筋に入る。−略− 竪筋は世界、横筋は趣向に成。竪は序より大切りまで、筋を合せても動きなし。横は中程より持出しても、働きと成りて、狂言を新しく見せる、大事の眼目なり」と言っている。
芝居には竪筋と横筋がある。それは「世界」と「趣向」というべき対照のものだが、芝居の「世界」はその骨格をなすものだから、必要欠くべからざるものである。しかし物語世界の骨格すなわち竪筋ばかりでは芝居に「働き」というものが生まれてこない。そこで戯作者が工夫すべきは趣向すなわち横筋を注入することによって、初めて芝居に俄然「働き」が生まれることになる、というのだ。
たとえば「楼門五三桐」という狂言、この芝居は竪筋=世界としての「太閤記」に、石川五右衛門という横筋=趣向を加えることで、新味が添えられ、大向うを唸らせるような面白みが増そうという訳である。

観客にとって芝居の面白さや醍醐味は、竪筋=世界としての「求心力」と、横筋=趣向としての「遠心力」が、相互に働きあってこそ供せられるもの、是れ、文字通り縦横無尽の遊び心が戯作者に求められているといえようか。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<雑−13>
 飛鳥川七瀬の淀に吹く風のいたづらにのみ行く月日かな   順徳院

後撰集、雑上、人々に百首の歌召しけるついでに。
邦雄曰く、万葉・巻七に「明日香川七瀬の淀に住む鳥も」と歌われて以来数多の用例をみるが、言葉の美しい形象と響きが、一首に特別の効果を与える。この歌、古今・冬の「昨日といひ今日と暮して飛鳥川流れて早き月日なりけり」を本歌とするが、第四句「いたづらにのみ」の徒労感に、時代の移りがみえる、と。


 誰が契り誰が恨みにかかはるらむ身はあらぬ世のふかき夕暮   冷泉為相

風雅集、恋五、題知らず。
邦雄曰く、恨むる恋の姿もさまざまあるが、死後の世界から、現世へと、わが恋の果てとその転生を想像するとは、もはや恋の領域を超えて無常の感すら添ってくる。上句の複雑な思考の曲線も見事だが、さらに下句の「身はあらぬ世のふかき夕暮」の響きは深沈として魂に及ぶ、と。


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