照る月の影を桂の枝ながら‥‥

Uvs0504201061

−表象の森− 月の桂

 月には高さ五百丈の桂の木が生えているという。
「月中に桂あり、高さ五百丈、常に人ありて、これを切る‥‥」と、中国の故事に由来する。
ある罪人に月中の桂を切り倒すことが課せられるのだが、それはいくら切ってもまたすぐに生え元にもどるから、その男は果てしなく切り続けなければならないという咄で、今なお切り続けるこの男は「月読男」とも「桂男」とも呼ばれる。

万葉集巻四は相聞歌を収集しているが、そのなかには、志貴皇子の子、湯原王の娘子に贈れる歌二首として、
  目には見て手には取らえぬ月の内のかつらのごとき妹をいかにせむ
が見える。ここでは一目瞭然、「月の桂」を決して手の届きえぬ面影の君と見立てている訳だが、ロマン掻き立てる「月の桂」の語イメージが「面影の君」へと喩えられるのは、月並み凡庸の筋というべきだろう。

したがって古今以後の「月の桂」への憧憬は、むしろ叙景を強めつつ、抒情味を内に潜ませてゆく。
  ひさかたの月の桂も秋はなほもみぢすればや照りまさるらむ  壬生忠岑古今集
  ことわりの秋にはあへぬ涙かな月の桂もかはるひかりに   俊成女−新古今集

山口県防府には、その名も「月の桂の庭」という枯山水の庭がいまに残る。毛利氏分家右田毛利家の家老職にあった桂運平忠晴が造らせた一庭二景の枯山水庭園で、正徳2(1712)年の作と伝えられるもの。さほどの面積もない庭だが、借景を利用しつつ、石と砂だけの簡素な作りの中に、仏教的世界観を凝縮させた枯山水だ。

余談ながら「月の桂」を冠してよく知られているのは伏見名代の銘酒だ。320年余を遡る伏見最古の蔵元になる濁り酒「月の桂」は、石清水八幡宮例祭に参拝の勅使姉小路有長卿なる公卿が立ち寄り、この酒を召した際に詠んだ歌「かげ清き月の嘉都良の川水を夜々汲みて世々に盛えむ」に由来するという。歌は凡庸な世辞の類そのものだが、真偽のほども定かならぬこの手の由来譚には似つかわしいものといえようか。


<歌詠みの世界−「清唱千首」塚本邦雄選より>

<夏−14>
 ほととぎす声も高嶺の横雲に鳴きすててゆくあけぼのの空   永福門院

続千載集、夏、題知らず。
邦雄曰く、歌いに歌って類歌の藪、本歌取りの掃溜めいてくる時鳥詠、それも14世紀初頭ともなれば、よほどの新味を創り出さねば振り返る人もない。この時鳥など、懸詞を交えて、新古今集以上に複雑な技巧を凝らしている。殊に第四句「鳴きすててゆく」の、大胆で辛みのある工夫は、さすがと思わせる、と。


 照る月の影を桂の枝ながら折る心地する夜半の卯の花   鴨長明

鴨長明集、夏、夜見卯花。
邦雄曰く、月世界に生う桂は五百丈、古歌には憧憬を込めてさまざまに歌われているが、空木の花盛りをこれに譬えるのは、比較的珍しかろう。一首が、韻文調散文ともいうべき文体で、上・下は甚だしい句跨り。この変則的な調べも、歌より文で知られた長明の特徴と思われて面白い、と。


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