灰汁桶の雫やみけりきりぎりす

Dancecafe080928194

―表象の森― 灰汁桶の巻

巻頭に「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 芭蕉」の句を置いた「猿蓑」は、芭蕉の厳密な監修の下、去来・凡兆による編集で元禄4年5月末に選了、同年7月に出版された。

乾坤2冊、うち乾-巻1〜4-は諸国蕉門作家118人の発句382句を冬・夏・秋・春の部立順に収め、巻軸は「望湖水惜春、行春を近江の人と惜しみける 芭蕉」である。坤-巻5.6-は発句の部と同順の歌仙4つと芭蕉の「幻住庵記」などから成る。

集の「序」は和文を以て其角がしるし、「跋」は漢文を以て丈草がしるしている。「古今集」の仮名序・真名序の伝に倣ったものだが、選者二人の起用に合せこれまた旧人・新人の取合せにも用意の趣向が見える。

この「灰汁桶の巻」は芭蕉・凡兆・去来・野水を連衆とし元禄3年秋に興行された。野水の現住庵訪問を迎えて義仲寺の宿坊で催されたと考えるのが自然だが、京の凡兆宅とか去来宅という可能性もなくはない。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「灰汁桶の巻」−01

  灰汁桶の雫やみけりきりぎりす  凡兆

次男曰く、
コオロギの声がした。
灰汁桶の雫は止んでいた。
散文で書けばこういうことになる。灰汁桶の雫がしなくなったと思ったら替りにコオロギが鳴き出した、というのではない。「けり」は今まで気付かなかった事実に気付かせられた感動をあらわす詠嘆の助動詞で、動作・作用の単なる完了を確認するものではない。「止みたり」とは違う。

灰汁桶は、衣類の洗いや染に用いる灰汁を採るため水桶に灰を浸したもので、簡便には上澄をじかに汲んで使うが、ここは濾し口を取付け別の桶へ滴らせるようにした仕掛である。土間かそれとも軒下か、いずれにしても雫の音が届く程の場所はそう遠くはないが、コオロギの声が聞えてきたのは軒端の内とは限らぬ。

この「きりぎりす」の実体は厳密にコオロギと考える必要はなく、庭にすだく虫の声だと解しておいてもよい。句眼は、理由は何であれふと耳を傾けさせられた秋の夜の虫の音が、代りに灰汁桶の雫の音が止んでいると、発見させた興の動きにある。

蟋蟀-しつしゆつ-、蟋は「万葉集」ではこおろぎ、「古今集」以来「きりぎりす」として詠み習わされ、いずれも秋に鳴く虫の汎称で-コオロギに限らない-、初乃至仲秋の季に扱うのを通例とする。芭蕉は、この歌仙と前後して、「白髪ぬく枕の下やきりぎりす」と、早々と牀下に入る虫の「あはれ」を詠んでいる。元禄3年8月、義仲寺の吟である。

「やみ−けり−きり−ぎり−す」、末尾イ音を伴う小節の積み重ねが暗示する終熄の予感は、寂寞とした晩秋の情景をも容易に思い描かせるだろう。庭には既に虫の気配なく、戸辺、絶々のコオロギの声を聞いたのだ、と読んでも句の解になる。灰汁桶の滴りのリズムに乗る夜長の興は、初・仲・晩三秋それぞれにある、と云いたげな作りである。

当季の発句には違いなかろうが、凡兆の句ぶりは当座の嘱目に基づくとも云い切れぬようだ、と。

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