ふるさと恋しいぬかるみをあるく

Santouka081130088

−表象の森− 至高の草書「李白懐旧遊詩巻」

石川九楊編「書の宇宙」シリーズ-二玄社刊-、№14「北宋三大家」より

李白懐旧遊詩巻」は、唐代の李白の詩を黄庭堅が書いたものである。残念なことに前半部が逸失しているが、黄庭堅の草書中、最高の書であるにとどまらず、書史上においても、文字通り空前絶後の作品である。

張旭や懐素の狂草体が一旦、この李白懐旧遊詩巻に集約され、その後、元代、そして明末の多彩な連綿狂草体へと展開する。その草書体の集約点にありながら、この書の姿が孤絶しているのは、書史上、唯一の多折法によって書かれた草書体だからである。

元・明代の草書体が、二折法-王羲之書法=古法-で書かれるのに対して、この書においては、二折法的な古法的表現を払拭し、徹頭徹尾、新法=三折法、新々法=多折法に依拠して書かれており、新法草書の極限といってもいい。

黄庭堅「李白懐旧遊詩巻」

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到平地。漢東/太守來相迎。紫陽/之眞人。邀我吹玉

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笙。湌霞樓上/動仙樂。嘈然宛似/鸞鳳鳴。長袖嘈嘈嘈嘈

この書は西暦1100年段階においては、西欧を含めて、あらゆる芸術分野をながめてみても、おそらく人類最高の表現であったと断言できる。

唐代の懐素の自叙帖は、ベートーベンやモーツァルトなど西欧古典交響楽なみの複雑な展開をもった表現であり、この李白懐旧遊詩巻は、それをはるかに凌駕する水準の表現であるからだ。

伏波神詞詩巻にも見られた多折法、垂直筆、複雑・緻密の力線展開に合せて、筆触の強弱、字画の肥痩、文字の大小・長短、構成の疎密、さらには踏韻展開と、当時の世界最高水準の動的なめくるめく表現がここにある。


―山頭火の一句― 行乞記再び -05-
12月26日、晴、徒歩6里、廿日市、和多屋

気分も重く足も重い、ぼとりぼとり歩いて、ここへ着いたのは夕暮れだつた、今更のやうに新人の衰弱を感じる、仏罰人罰、誰を怨むでもない、自分の愚劣に泣け、泣け。

此宿もよい、宿には恵まれてゐるとでもいふのだらうか、一室一灯を一人で占めて、寝ても覚めても自由だ。
途中の行乞は辛かつた、時々憂鬱になつた、こんなことでどうすると、自分で自分を叱るけれど、どうしやうもない身心となつてしまつた。

禅関策進を読む、読むだけが、そして飲むだけがまだ残つてゐる。

毎日赤字が続いた、もう明日一日の生命だ、乞食して存らへるか、舌を噛んで地獄へ行くか。‥‥

  • 略- 床をならべた遍路さんから、神戸の事、大阪の事、京都の事、名古屋の事、等、等を教へられる、いい人だつた、彼は私の「忘れられない人々」の一人となつた。

※表題句は、同前、12月31日付記載の句

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