あはれさの謎にもとけし郭公

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―今月の購入本―

中上健次紀州−木の国・根の国物語」小学館文庫
小説ではない、故郷新宮を起点に熊野古道ゆかりの町や村を廻る叙事的エッセイ。初出は77〜78年の朝日ジャーナル連載と一部他。

安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」ちくま学芸文庫
著者による芭蕉七部集評釈ものの決定版完本、講談社学術文庫上下本の「芭蕉連句評釈」を底本に一部訂正加筆され05年初版刊行。

S.カウフマン「自己組織化と進化の論理」ちくま学芸文庫
訳は理論物理学米沢富美子。要素還元論だけでは説明できない多くの複雑系に共通するキーワードは自己組織化であると、生態系、生命体、経済システム、技術系分野など、個々の要素の働きや相互作用が全く異なるシステムに共通するメカニズムを読み解く、99年日本経済新聞社初訳刊行の文庫版。

吉本隆明「情況への発言-1」洋泉社
吉本自身が主宰した雑誌「試行」の巻頭を飾った「情況への発言」を3巻に分けて全集成したその1で、1962年〜75年を掲載。

乗越たかおコンテンポラリー・ダンス徹底ガイド」作品社
第二次大戦後からのダンス界の流れを大掴みに渉猟しつつ、近時のContemporary Danceに活躍するダンサーたちの顔ぶれを紹介。

広河隆一編集「DAYS JAPAN -アイヌの誇り-2008/02」ディズジャパン
パレスチナ難民発生60年を振り返る広河隆一の写真と文、アジアに蔓延するHIV感染状況などを掲載。

他にARTISTS JAPAN 52-土田麦僊、53-東郷青児、54-福田平八郎、55-村上華岳

―図書館からの借本―

S.ジジェク「快楽の転移」青土社
ラカン派の精神分析的手法で、芸術や思想における「女性」の立場の不定性を検証して権力と性的なるものの相関を明らかにし、現代の欲望のダイナミズムを解き明かす。95年刊。

J.ダイアモンド「銃・病原菌・鉄-上」草思社
著者は進化生物学者。はるか昔、最後の氷河期が終わった13000年前から、同じような条件でスタートしたはずの人類が、今では一部の人種が圧倒的優位を誇っているのはなぜか。著者の答は、地形や動植物相を含めた環境であり、本書のタイトルは、ヨーロッパ人が他民族と接触したときに武器になったものを表している。

鎌田茂雄「韓国古寺巡礼-百済編」NHK出版
鎌田茂雄「韓国古寺巡礼-新羅編」NHK出版


<連句の世界−安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」−27

   烏賊はゑびすの国のうらかた  
  あはれさの謎にもとけし郭公   野水

次男曰く、「しらしらと砕けしは人の骨か何」、「烏賊はゑびすの国のうらかた」を合せの謎掛けと見て、「郭公」-杜鵑、時鳥に同じ-と解く、と付けている。その心は、王昭君だと云いたいらしい。

「あしびきの山がくれなるほととぎす聴く人もなき音をのみぞ啼く−実方中将」は、「和漢朗詠集」の「王昭君」題に、白楽天ほかの詩聯七首-内四首は大江朝綱の律詩四聯-とともに見えるものだ。謎掛けの発端をつくった杜国の「しらしらと」が朗詠集満尾の歌の翻転なら、「ゑびすの国のうらかた」と続けられて、同じ集に「身ハ化シテ早ク胡ノ朽骨ナリ、家ハ留リテ空シク漢ノ荒門トナル」-紀長谷雄-、「胡角一声霜後ノ夢、漢宮万里月前ノ腸」-大江朝綱-という人口に膾炙した対句のあったことを、思い出さぬ筈がない。

前漢元帝の世に、講話のため匈奴単于の許に贈られて、呻吟、胡地に怨死した宮女の話は、「あはれ」なる主題の代表的なものとして平安朝以降、詩・舞曲・今様・歌留多などに取入れられている。
その「和漢朗詠集」の「王昭君」題に、杜鵑の歌があったと思い出したのは、まずは自然な成行だったと思うが、さらに季詞の連想が働いたかも知れない。烏賊とほととぎす-初夏-を寄合の詞と見る理由は充分にある。二ノ折九句目、冬を挟んだ雑数句のはこびのなかに夏の句の一つも加えたいと思えば、ここよりほかにないことは誰の目にも瞭かだ-二句後に月の定座を控えている-。

野水の「郭公」は謎解きだけで生まれたものでもないようだ。とはいえ「和漢朗詠集」の「王昭君」がなければ、前二句の合せを「あはれ」と眺める興も浮かぶまい。発端-杜国-の作りを見咎めて、謎解きのたねも同じ「朗詠」に求めた気転が俳である。怪しげなイカの骨をとつぜん持ち込まれても手の出し様はないが、確かな出所がわかれば買える、と野水は云っている。うまい躱-かわ-し様だ。

作りは「あはれさの」で切れるとも、「あはれさの謎」と続くとも読め、これは留字の「郭公」が連句特有の投込として遣われていることとも併せて、兼用と見ておく。「あはれさの謎にもとけし-ことよ-、郭公-のあはれさは-」。「も」は強意の係助詞。「し」は助動詞「き」の連体形だが、終止に用いて詠嘆の語法としたものである。

尤も、古文の表記は通例、清濁の別を設けていないから、「謎にもとけし」は「とけじ」と、打消しの推量に読めぬこともない。ないが、この巻には先に、「たそやとばしるかさの山茶花」と、わざわざ濁点を付けた例-脇句-が出ていた。ならば、濁点の有無で意味が真反対になるような文脈のかなめは、表記どおりに読むしかなかろう。


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