股引の朝からぬるゝ川こえて

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―世間虚仮― ショック・ドクトリン-The Shock Doctrine-

「みすず」6月号を読んでいると、「ショック・ドクトリン」、惨事資本主義の真相、なる文字通りかなりショッキングな一文に出会した。

昨年の9月発刊と同時に「Democracy Now」で放映され全米で注目を集めてきた「ショック・ドクトリン-The Shock Doctrine-」の著者ナオミ・クライン-Naomi Klein,1970年生-への、そのインタビュービデオの邦訳だ。

1973年のピノチェト将軍によるチリのクーデターにはじまり、中国の天安門事件ソ連の崩壊、米国同時多発テロ事件、イラク戦争、アジアの津波被害、ハリケーンカトリーナetc.‥、人為的なものから自然災害にいたるものまで、暴力的な衝撃で世の中を一変させた、これらの事件に一すじの糸を通し、従来にない視点から過去35年の歴史を語りなおすというのが、「The Shock Doctrine: The Rise of Disaster Capitalism-ショック・ドクトリン:惨事利用型資本主義の勃興」だと。邦訳書はまだだが近々出ることとなろう。

そのインタビューの全容は「Democracy Now! Japan」 で字幕版が見られるから、ご覧になるのをお奨めする。

Catastrophe的状況を反転、Reconstructionへの最大の機会と捉えようとする発想自体は、有史以来めずらしくもなくありふれたものではあろうが、直接間接に権力の作為がいかように関わってきたかを一つの視点から俯瞰してみることは有意のことではある。

N.クラインたちはその視点に「ショック・ドクトリン:惨事資本主義」を据えてグローバル・スタンダードの全体像を捉えようとしたわけだが、些かセンセーショナルに過ぎると見えようと、この意義は大きいものがあると思える。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」−05

   たぬきをおどす篠張の弓  

  まひら戸に蔦這かゝる宵の月  芭蕉

次男曰く、月の座だが、「篠張の月」と誘われれば名月-満月-などを詠むわけにはゆかぬ。打越に朝とあれば、加えて、弓張月を有明とすることも出来ぬ。輪廻になる。宵月とまず見定めたゆえんだ。

取合せて蔦の這うままに任せた舞良戸と作ったのは、われらが行様はまるで蔦の細道-下道-だ、とみんなを笑わせているのだろう。舞良戸は入子板の表裏に間狭な横桟を天地いっぱいに取付けた書院造り用の引違戸で、舞良子-桟-と舞良子の間は云うなれば細道である。この目付はうまい洒落になる。

伊勢物語」第九段に見える
行き行きて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦・楓は茂り、物心ぼそく、すずろなる目を見ること思ふに、修行者あひたり。かかる道はいかでか在まする、といふを見れば見し人なりけり。京に、その人-或人-の御許にとて、文書きてつく-託する-、

駿河なる宇津の山辺のうつゝにも夢にも人に逢はぬなりけり」

宇津の山は以来駿河国の歌枕になり、蔦の細道は、託して、旅の心細さや難儀を展-の-べることばとなった。

「都にも今や衣をうつ山の夕霜はらふ蔦の下道」藤原定家新古今集

「踏み分けてさらにや越えん宇津の山うつろふ蔦の岩の細道」藤原家隆/最勝四天王院名所障子歌

「まひら戸に蔦這かゝる」といえば、廃屋かそれとも無頓着に住み成すさまか、もとはいずれしかるべき旧家か寺の構えである。打越以下三句は凡兆・史邦で人情、史邦・芭蕉で景色、「まひら戸」の句は三句の渡りを考えた場の付だと容易にわかるだろう。

芭蕉の句は、舞良戸が蔦に被われる成行は梓弓が篠弓に変わるそれと同じことだ、と物の本末に於て二句の位をはかりながら、脅かすつもりの人が脅かされる-ギョッとする-羽目に陥った可笑しさを以て俳としている。

前句の過ぎたはしゃぎぶりを嗜めているとも、旦暮-タンボ、朝夕-は旅の常-宵月のある蔦の細道を怖がることはない-と宥めているとも読める句ぶりで、有無相通じる作りである、と。


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―表象の森― 陽気な人々

渡辺京二「逝きし世の面影」より −№2−

・19世紀中葉、日本の地を初めて踏んだ欧米人たちが最初に抱いたのは、他の点はどうあろうと、この国民はたしかに満足しており幸福であるという印象だった。

「健康と満足は男女と子どもの顔に書いてある」−ロシア艦隊の一員として函館に来た英国人ティリー-Henry Arthur Tilley、生没年不詳-1859(安政6)年。

「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人など居なくてもよいのかもしれない」−1860(万延元)年来日、プロシアオイレンブルク使節団報告書。

1860(万延元)年来日した英国聖公会-Anglican Church-の香港主教ジョージ・スミス-George・Smith-(1815-71)-は、
「西洋の本質的な自由なるものの恵みを享受せず、市民的宗教的自由の理論についてはほとんど知らぬとしても、日本人は毎日の生活が時の流れに乗ってなめらかに流れてゆくようになんとか工夫しているし、現在の官能的な楽しみと煩いのない気楽さの潮に押し流されてゆくことに満足している」

また、日本を訪れる前に、オーストラリア、ジャワ、シャム-タイ-、中国を歴訪してきたボーヴォワル-既出-は言う、
「日本はこの旅行全体を通じ、歩きまわった国の中で一番素晴しい」「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である」「この鳥籠の町のさえずりの中でふざけている道化者の民衆の調子のよさ、活気、軽妙さ、これは一体何であろう」「顔つきはいきいきとして愛想よく、才走った風があり」「女たちはにこやかで小意気、陽気で桜色」「例のオハイオやほほえみ」「家族とお茶を飲むように戸口ごとに引き留める招待や花の贈り物」「地球上最も礼儀正しい民族、‥いささか子どもっぽいかも知れないが、親切と純朴、信頼に満ちた民族」だと。

・人々の表情にあらわれているこの幸福感は、明治10年代になってもなお記録に止められた。

横浜、東京、大阪、神戸などで水道設計をした英国技師ヘンリー・S・パーマー-Henry Spencer Parmer-(1838-93)-が、1886(明治19)年のタイムズ紙に書いたという、伊香保温泉の湯治客について、
「誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌のよさがありありと現れていて、その場所の雰囲気にピッタリと融けあう。彼らは何か目新しく素敵な眺めに出会うか、森や野原で物珍しいものを見つけてじっと感心して眺めている時以外は、絶えず喋り続け、笑いこけている」

ブラック-既出-の眼には、羽根つきに興じて顔に墨を塗りたくっている大人たちは、まことに愛すべき者に映った。
「そこには、ただ喜びと陽気があるばかり。笑いはいつも人を魅惑するが、こんな場合の日本人の笑いは、ほかのどこで聞かれる笑い声よりも、いいものだ。彼らは非常に情愛深く親切な性質で、そういった善良な人達は、自分ら同様、他人が遊びを楽しむのを見てもうれしがる」

・小さな物語的世界のなかでだれもが示す幸福感と、顕わに横たわる封建的身分社会という現実−その乖離した諸相になにを見出しうるのか

「幕末日本図絵」を著したスイスの遣日使節団長として1863(文久3)年来日したアンベールは、
「江戸庶民の特徴」として社交好きな本能、上機嫌な素質、当意即妙の才」を挙げ、「陽気なこと、気質がさっぱりとして物に拘泥しないこと、子どものようにいかにも天真爛漫」なことを数えあげる。「日本の庶民階級の人々は、まるで子どものように、物語を聞いたり歌を歌うのを聞いたりするのが非常に好きである。職人の仕事や商品の運送などが終るころ、仕事場の付近や四辻などで、職業的な辻講釈師の前に、大勢の男女が半円を作っているのを毎日のように見かける」

私は古き日本が「楽園」と評するに足る実質を備えていたかどうか、結局それは異邦人の垣間見の幻想ではなかったかと云った問題には何の関心もない、と著者はいう。‥重要なのは、当時の日本がある異形のもの、「楽園」と呼ぶのが妥当であるかどうかは別として、そんなふうにでも呼ばずにはいられない文化的なショックとして、欧米人の眼に現象したという事実のほうなのだ。なぜなら、そのような異質感をもたらした彼我の落差のうちに、彼ら欧米人がすでに突入し、われわれ日本人がやがて参入しなければならなかった近代、つまり工業化社会の人類史に対してはらむ独特な意味が、ゆくりなくも露出し浮上してくるからである。

日本人の顔に浮かぶ満足した幸せな表情−これらこそが、善良かつ明朗な民衆の性質とあいまって、実際には日本が地上の楽園である筈がないと知りながら、そうとでも呼んでみるしかない衝動を観察者たちのなかに生み出した要因といってよかろう。

明治年間、東大で哲学を講じたドイツ系ロシア人のケーベル-Raphael Koeber-(1848-1923)-にとっても、
日本人の最大の魅力はその「ナイーヴなそして子どもらしい性質」だった。
その彼が「日本はいよいよますます、その清新な本源的なところと、子どもらしさと、一種愛すべき<野生>−その残余は私の渡来当時にはまだ認めることができた、そしてそれは私にとってきわめて好ましい性質であったが−とを失いつつある」と書いたのは、明治も去りゆき1918(大正7)年のことだった。


<連句の世界−安東次男「風狂始末−芭蕉連句評釈」より>

「鳶の羽の巻」−03

   一ふき風の木の葉しづまる  
  股引の朝からぬるゝ川こえて  凡兆

次男曰く、朝鳶が鳴けば雨が降る、朝鳶に川を越すな-遠出をするな-という俚諺がある。

発句・脇の作りに時分-朝昼晩-の見込を立てて、景色を人情に移した雑体の句だが、敢えて、股引の朝から濡れるのもかまわず川を渡る、と逆らってみせたところが味噌である。

第三の句は、「脇と同じくなごやかに差し出たる詞なく」-紹巴、連歌教訓-、しかも「脇に能付候よりも長高きを本とせり。句柄賤しきは第三の本意たるべからず」と云われ、これは俳諧といえども常識である。句材-股引-と云い、風狂と云えば云える面白さはあるようだが、「猿蓑」集の映となるべき興行に、どんなつもりでこんな粗野な第三を作ったか、とこれは考えぬわけにはゆくまい。

「朝から濡るるといへるに其の人の情を具して、寒雨飄揺自ずから窅掲-レイケイ-の意にひびけり」-露伴-、「股引と云えば大方百姓であろう。‥何か特別に早朝かけて川越をしなければならない仕事をもっているものであるいう気配がある」-太田水穂-など、「股引の朝からぬるゝ」のみに気を取られて、「川こえて」を句作りの成行と手軽に考えてかかると、無くもながの印象批評に終る。

凡兆の目付は、持統天皇の吉野行幸に供奉した人麿の讃歌だろう。「万葉集」には「朝川渡」を詠んだ歌が3首あるが、その内、この人麿の歌は「拾遺集」の巻九・雑にも選ばれた格別の歌だ。

「やすみしし 吾が大王の 聞こしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませは ももしきの 大宮人は 船並めて 旦-アサ-川渡る 舟競-フナギオヒ- 夕河渡る 此川の 絶ゆる事なく 此山の 弥-いや-高しらす 水激-はし-る 瀧の宮処は 見れど飽かぬかも」

  反歌
「見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆる事なくまた還り見む」

王城の地で正風を天下に問う映の興行に当って、さてどんな服装-いでたち-で「朝川」を渡ろうか、と思案したところが凡兆の作分で、吉野行幸讃歌が無ければ「股引の朝からぬるゝ」は俳言にもならぬ。仮にこれを、狩衣・指貫、あるいは簑笠などと取替えてみよ。新風の心意気も、口もと途端にゆるんで、只の綺麗事になってしまうだろう。

ちなみに股引は、脚絆と併用した半股引で、室町末・近世初ごろから用いられたらしい。軽衫-カルサン-裁着-タツツケ-をさらに簡便にしたものである、と。


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